コラム:月と森と人と
2008年2月発行の新月の木国際協会の会報誌「月と森と人と」に寄せたテキストを紹介します。この当時も今も「木」という奇跡の生命体を尊敬する想いに変わりはありません
月と呼応する住居の時代
落合俊也
木はまったく可哀相な扱いを受けている。人は自分より長い時間を生きて成長を続けてきた木を切り倒し、自分の都合で粗末に扱う。素材に畏敬の念を払い、手をかけて物を作るということをしなくなって、物作りの精神や姿勢がずいぶん変わってしまった。素材に対する思いの欠如した物つくりなど本来ありようがないのに。
家に使われる木のことを考えてみよう。木造といっても、ほとんどの場合その木は壁の中に隠れている。どうせ隠れて表に出ない木であれば、そんなに手をかけることもない。かくして建築における木の立場は下がる一方となってしまった。
伝統的な工法に見習い、木を表に出して構造即意匠のデザインを長く続けてきた筆者の周りの職人すら、その思いの欠如が見受けられる事がずっと気になっていた。職人の物つくりの姿勢をもう一度昔のそれに戻すことの意義は、労働の本質的意味を問い直すことでもある。職人は自分たちのためにも木に対する姿勢を正す必要があるのだ。
ところで、木と地球と人間は同一生命体である。宇宙的視野から見れば地球と月も兄弟のように影響しあう存在である。 月は地球のかけらだという説もある。ここからは私の勝手な想像話。お互いに影響しあって生きてきた木が、ある日同胞の人間の手で切り倒され、生き物としての生命を終える。その後、素材として再び命を吹き込まれるかどうかは、かつての同胞者だった人間の手で再びエネルギーを注入されるかどうかにかかっている。人の手に愛でられて、再び木と人は同調関係を結ぶのである。だから木造住宅の木は職人の手で加工され細工され、そしてそれらは隠されることなく構造即 意匠で表されて、住人との間で呼応しあってこそ神秘性と芳醇さを併せ持つ、まさに人間的空間となりえるのである。
地球の懐に抱かれ、樹木に抱かれながら月を見上げて、安息の心を満たした古人の人間らしい本質の心うち。現代人にその心を呼び起こす究極の家の姿をこのやり方で再現することができる。
これに比べて現代の家はなんと御粗末なのだろう。工業製品を現場で切り貼りしたり設置するだけで出来上がる力のない空間は、まさに本質的豊かさを持った昔とは断絶がある。
(月と森と人と/第8号掲載)